大原美術館:『アルプスの真昼』セガンティーニ

光を感じる眩しいような明るい絵だと思います。

大原美術館
ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858ー1899)
「アルプスの真昼」1892

【鑑賞の小ネタ】
・羊の群れの中に別の動物
・この女性は誰?
・遠くの方に誰(何)かいる?
・塗り方(筆のおき方)に注目
・セガンティーニは幼少期から苦労人で
 一生無国籍だった

ジョヴァンニ・セガンティーニはとても苦労人だったようです。北イタリアのアルコ(当時はオーストリア領)で生まれました。幼くして両親を亡くし、異母姉アイリーンと暮らすこととなるのですが、ほとんど路上生活者のような生活を送っていたようです。アイリーンは生活のためミラノへ移住することを考え、ジョヴァンニと共にミラノへ行くのですが、この時、イタリア国籍を取得する手続きをしなかったため、二人は一生無国籍となってしまいます。ジョヴァンニは相変わらず路上生活で、読み書きもろくにできなかったそうです。そうした中、警察に逮捕され、少年院に送られます。少年院に入って色々学び、院長がジョヴァンニの絵の才能を見出し、画家になるよう励ましたそうです。少年院を出て、17歳でブレラ美術学校に入学し絵を学び始めました。そして1880年にミラノにアトリエを構え、ルイジア・ブガッティと結婚しようとしますが、国籍がないので書類が揃わず、結婚を諦め同棲することになりました。その後も居は転々とします。

1886年からスイスへ移り住みます。ベル二ナ地方のポスキアヴォやシルヴァプラーナを経由して、グラウビュンデン州のサヴォニン(Savognin)に到着し、ここでしばらく生活することとなります。この時期に( 1894年にエンガディン地方のマローヤへ移住するまで)多くのアルプスの風景画が描かれています。

大原美術館の「アルプスの真昼」もここサヴォニンで描かれたものでしょう。 セガンティーニ美術館所蔵の「アルプスの真昼」がこちら。

セガンティーニ美術館
(オットー・フィッシュバッハ―財団より寄託)
「アルプスの真昼」1891

よく似ていますね。モデルの女性も同一人物だと思います。子守のバーバ・ウーフェルなんだそうです。ジョヴァンニのお気に入りのモデルだったようです。次の2点も多分 バーバ・ウーフェル だと思います。ジョヴァンニとルイジアの間には男の子3人、女の子1人の4人の子どもがいるので、もしかしたら「編み物をする少女」は娘かもしれませんが、どうでしょう?

チューリッヒ美術館
「編み物をする少女」1888
「日陰の想い」1892

セガンティーニの家族写真がいくつか残っていて、それを見ると、フリルのついた可愛い服を妻も娘も着ていることが多いです。ということで、シンプルな青の服の女性はまず子守のバーバ・ウーフェル で大丈夫だと思います。

サヴォニンの冬の風景画です。教会でしょうか?とがった屋根の建物に注目して下さい。

「Winter View of Savognin」1890

現在のサヴォニンの写真がこちらです。

出展:スイス政府観光局
サヴォニン

写真の中にもとがった屋根の建物が見えますね。位置が左右逆ですが、セガンティーニがどの場所から描いたか、なんとなく想像できます。きっと写真左端の山のすそ野の小高くなった所から町を見下ろす感じで描いたのだと思います。

Winter View of Savognin 」1890の中に、鳥が飛んでいるのが分かりますか?実は、大原美術館の「アルプスの真昼」の中でも、しっかり鳥が飛んでいるんですよ!よく観ないと分かりません。あれ?セガンティーニ美術館の「アルプスの真昼」でも飛んでました!大原美術館の方より少し大きめに描いてます。

  

晩年、セガンティーニの画風は変化します。とても不思議な絵を描くようになり、象徴主義(人間の内面的な苦悩や夢想を表現する、目に見えないものを見える形にする)の画家として有名になります。とても同じ人が描いたとは思えないものになっています。今回紹介したアルプスシリーズからは想像もつかない絵なのでびっくりしますョ。

ピカソもそうですが画風の変化はよくあることです。そしてそこに注目して絵画を観ると、また一つ楽しみが増えること間違いなしだと思っています。

続:モディリアーニ~画家ジャンヌ・エビュテルヌ~

モディリアーニの内縁の妻、ジャンヌ・エビュテルヌについてもう少し書いてみたいと思います。とても魅力的な女性だったようです。

ジャンヌ・エビュテルヌ
1918年頃

ジャンヌは画家を志していた兄のアンドレ・エビュテルヌに、モンパルナスの芸術コミュニティへ紹介されています。そしてレオナール・フジタ(藤田嗣治)をはじめ芸術家たちのモデルを務めました。その頃の写真がこちら。

ジャンヌ・エビュテルヌ
1917年頃

首をかしげるこの感じ。大原美術館のジャンヌもそうですよね。

ジャンヌはモデルを務める中で、絵画にも興味を示し、パリのアカデミー・コラロッシ(私立の美術学校)に入塾して画才を発揮しています。この塾では、多くの外国人美術家や女性美術家が学んでいたそうです。女性美術家に対する扱いは歴史的にみてもなかなか厳しいもので、アカデミーや公的な芸術教育が女性に対して門戸を開くようになったのは19世紀になってからでした。20世紀初頭でも、まだまだ女性美術家は少数派だったことでしょう。そのような中、モデルだけではなく、画家としても挑戦するジャンヌの姿に芯の強さを感じます。確かに目力はありますよね。

ジャンヌが描いた自画像をいくつか紹介します。

自画像 1916
自画像 1917
自画像 1919

目がとても鋭いです。ジャンヌ自身の実際の目は、青色の切れ長の目ということだったようですけど、それにしても鋭く描いていると思います。それに引きかえモディリアーニは、ジャンヌの目を最終的には瞳孔のない薄い青色の目に描いてます…

こちらはジャンヌが描いたモディリアーニです。

アメデオ・モディリアーニの肖像 1919

これは実物に近いように思います。疲れた目をしていますが、モディリアーニはとてもハンサムだったんです。つまり、美男美女カップルだったというわけです。悲劇的な最期(モディリアーニは35歳で病死、ジャンヌは21歳で後追い自殺)だったこともあり、「モンパルナスの灯」(1958年フランス)、「モディリアーニ真実の愛」(2004年アメリカ、フランス、イギリスなど6各国合作)と2度に渡り映画になっています。

出展:Amazonホームページより

ところで、ジャンヌが投身自殺した時、妊娠9カ月でした。お腹の子も亡くなりましたが、ジャンヌとモディリアーニには母と同じジャンヌと名付けられた娘がいました。1歳2か月で父親と母親を亡くしたということです。娘ジャンヌはモディリアーニの姉に引き取られ無事に育ちました。成長した娘ジャンヌは、美術研究者になっています。

出展:EpitaphWriter
ジャンヌ・モディリアーニ
出展:Amazonホームページ
ジャンヌ・モディリア二 著
「モディリアニ 人と神話」

娘ジャンヌは、父アメデオ・モディリアーニの批判的研究を行っていて、父の伝説がいかに脚色されているかを指摘しています。この本の表紙の裸婦(ジャンニ・マッティオーリ・コレクション所蔵、アメデオ・モディリアーニ作、「赤い裸婦」1917)は、まず母ジャンヌではありません。モディリアーニの描くジャンヌ・エビュテルヌはほとんど服を着ています。そしてモディリアーニはジャンヌ・エビュテルヌの裸婦像を描かなかったと言われています。

娘ジャンヌの渾身の著作物「モディリアニ」の表紙に、あえて母ジャンヌの肖像画を使わず、何人もいた母ではないモデルの裸婦像を採用しています。「赤い裸婦」は別名「腕を広げて横たわる裸婦」で、実物は下半身もしっかり描かれていて、かなり官能的な絵となっています。娘ジャンヌの父モディリアーニに対する思いを表紙からも垣間見ることができそうです。父モディリアーニはとにかくプレイボーイだったようですから。母ジャンヌはいつも嫉妬にかられていたそうです。

  

ジャンヌ・エビュテルヌ

ジャンヌ・エビュテルヌの謎めいた作品2点です。
「死」の絵の中の帽子をかぶった男性はモディリアーニでしょうか?もしかしたら、ラビ(ユダヤ教の指導者)かもしれません。ジャンヌはカトリックの家に育ち、モディリアーニはユダヤ系イタリア人なので、宗教の違いがありました。ジャンヌが家族にモディリアーニとの交際を猛反対される理由の1つにこの宗教の違いがあったようです。ラビは絵にあるような帽子をよくかぶっています。カトリックの神父ではなく、ユダヤ教のラビを描いたとなると、ジャンヌのモディリアーニに対する揺るぎない愛(決意)を感じます。そして、ベッドに横たわる女性はまずジャンヌだと思います。【豆知識:ユダヤ教→ラビ、カトリック→神父、プロテスタント→牧師】
「自殺」の方は、ジャンヌ自身の未来を暗示するかのようです。相当追い詰められていたことがよく分ります。

最後にジャンヌの比較的幸せそうな絵を紹介します。

ジャンヌ・エビュテルヌ
「モディリアーニとジャンヌ・エビュテルヌ、ニースにて」

この絵を見て、少しほっとしました。良い時もあったのかと。椅子に座る奥の男女が、モディリアーニとジャンヌです。ワインを飲みながら穏やかな時間を過ごしているように見えます。左端にいる猫を2人は見ているようですが、残念ながら2人とも表情は硬いです。笑っているとは言えませんね。でも、2人が手を繋いでいるのに気づきましたか?もしかしたら、願望を描いた作品なのかもしれませんが、この絵があって本当に良かったと筆者は思います。

大原美術館:『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』モディリアーニ

首をかしげて悩まし気な様子の肖像画です。

大原美術館
アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)
「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」1919

【鑑賞の小ネタ】
・モディリアーニが亡くなる前年の作品
・ジャンヌはモディリアーニの内縁の妻
・ジャンヌはこの時二人目を妊娠中
・瞳孔(黒目)を描かない目に注目
・モディリアーニはそもそも彫刻家

モディリアーニは1900年16歳の時に結核にかかっています。生涯にわたり病弱だったようです。そもそも彫刻家を目指していたのですが、彫刻は体力を使うということで、徐々に絵画の方へ重きを置きました。

肖像画は、彫刻の様子とよく似ていることが分かります。それにしてもシューっと細長いですよね。しかもシンプル。当時、パリ万博などを通して、プリミティブ(原始的)な芸術への注目度が高まっていました。アフリカやオセアニアなどの仮面や彫刻がパリにもたらされました。そしてモディリアーニはアフリカの仮面にとても興味を持ったようです。確かにモディリアーニの彫刻は仮面っぽいですね。

1917年3月にジャンヌに出会い、程なく同棲を始め、1918年転地療養のためニースに滞在し、同年11月に長女ジャンヌが誕生しています。1919年7月にジャンヌと結婚を誓約しましたが、1920年1月24日、結核性髄膜炎により35歳で死去しました。そしてジャンヌも翌日、後を追って飛び降り自殺をしました。この時、妊娠9カ月だったといいます。

ちょっとここで、「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」の薄い青色の目に注目してみたいと思います。初期のジャンヌの肖像画には瞳孔がしっかりありました。

個人所蔵
「赤毛の若い娘の肖像(ジャンヌ・エビュテルヌ)」1917-1918

本来ジャンヌの瞳孔の色は青いらしいのですが、この瞳孔は黒いですね。何れにしてもしっかり描かれています。

個人所蔵
「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」1919-不明

瞳孔がほぼ輪郭だけになっています。制作月がはっきりしないので断言できませんが、きっと、薄い青色の目の前段階ではないかと思います。

ソロモン・R・グッゲンハイム美術館
「黄色いセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ」1919ー不明

完全に瞳孔はなくなり、薄い青色の目になっています。大原美術館のジャンヌととてもよく似ていますが、こちらの方が少し表情がやわらかいように思います。

 

ところで、モディリアーニはなぜ瞳孔を描くことをやめたのでしょうか? モディリアーニの晩年は、結核に加え、過度の飲酒、薬物依存など不摂生で荒廃した生活でした。ジャンヌは常に不安にかられた生活を送っていたと思われます。そしてそれは表情にもきっと出ていたはず。様々な感情が交錯して、モディリアーニはもしかしたら瞳孔が描けなかったのかもしれません。描かない方が真実に近づくみたいなあの感じです。それらの思いを最もよく表現できているのが大原美術館のジャンヌではないかと筆者は思っています。もし瞳孔が描かれていたら、読み取れる感情の幅も狭くなっていたような気がします。説明しない(瞳孔を描かない)方が伝わるということだと思います。

瞳孔のない薄い青色の目、奥深いですね。

大原美術館:白樺美術館より永久寄託作品

この永久寄託の文字にグッときます。4作品あります。

大原美術館所蔵 白樺美術館より永久寄託
ポール・セザンヌ(1839-1906)
「風景」1888-1890
大原美術館所蔵 白樺美術館より永久寄託
オーギュスト・ロダン(1840-1917)

【鑑賞の小ネタ】
・永久に寄託されている作品
・セザンヌ「風景」は白樺美術館が購入
・ロダン3作品はロダンが白樺美術館へ寄贈
・セザンヌは塗り残す

「白樺美術館」とは、1910年(明治43年)同人誌『白樺』を創刊させたメンバーである武者小路実篤や志賀直哉ら同人達により構想された美術館です。同人誌『白樺』とは、総合芸術雑誌といったところです。1923年の関東大震災により残念ながら廃刊され、それに伴い、「白樺美術館」設立の夢は途絶えてしまいます。

  

ある時、同人達はロダン特集を企画しました。その際、直接ロダンに会う機会に恵まれました。そしてロダン自作の3作品を寄贈してもらえたそうです。これをきっかけに、美術館建設計画が持ち上がりました。美術作品を収集するために大規模な寄付運動が展開されて、セザンヌの「風景」を購入することができたそうです。

1950年、大原美術館創設20周年式典に武者小路実篤と志賀直哉 が招かれました。自分たちの夢を託すのはこの美術館しかないということで、4作品が寄託されたそうです。これからの日本の芸術について熱く語られたことでしょう。
[参考文献:大原美術館監修『大原美術館で学ぶ美術入門』JTBパブリッシング発行]

「白樺美術館」として開館することはありませんでしたが、「白樺美術館」とあえて表記することで、同人達への敬意のような熱い思いを感じます。そしてこの「永久寄託」、「寄贈」ではなく「寄託」なのです。貰うのではなく、永久に預かって(保管して)おきますからということです。今後おそらく開館することはない「白樺美術館」に対して、預かる(保管する)と言っているのです。素晴らしい心の交流、そして配慮だと思います。筆者はこんな話が大好きです。

  

ところで、セザンヌの「風景」ですが、白い部分が残っていて、まるで途中辞めのような絵だと思いませんか? これが“セザンヌの塗り残し(余白)”です。セザンヌの作品にはよく見られます。塗り残しが見られる作品をいくつか紹介します。

チューリッヒ美術館
ポール・セザンヌ
「サント=ヴィクトワール山」1905
ブルックリン美術館
ポール・セザンヌ
「ガルダンヌ」1885
テート・ギャラリー
ポール・セザンヌ
「水差しのある静物」1892年頃

なかなかの塗り残しぶりですね。でも、なぜだか全体的にバランスがとれているように感じます。そして筆者は、塗り残しがある方が好きなのです。

大原美術館:『パリ郊外の眺め バニュー村』アンリ・ルソー

ほのぼのとした気分になる絵だと思います。謎は多いですが…

大原美術館
アンリ・ルソー(1844-1910)
「パリ郊外の眺め バニュー村」1909

【鑑賞の小ネタ】
・ルソーはパリの税関職員
・独学の日曜画家
・地面に影を描かない
・モチーフの大きさが不自然
・作風が独特のため、なかなか評価され
 なかったが、ピカソが認めた!
・亡くなる前年の作品

ぱっと見はかわいい絵だなと思いました。この牛、岡山県北の蒜山高原で飼育されているジャージー牛によく似ています。

出展:ひるぜんジャージーランドHPより

ルソーは他にも牛の絵を描いています。

フィラデルフィア美術館
アンリ・ルソー
「牛のいる風景」1886
ブリヂストン美術館
アンリ・ルソー
「牧場」1910

色が少しづつ違っていますが、どの牛も茶系でほのぼのしています。ジャージー牛に一番似ているのは大原美術館の牛だと思いますけど。

  

そして、画中右側の薄い茶色の2つの塊、これはきっと積み藁(ワラ)なんだと思います。かなり大きいです。牛よりも大きい。この積み藁、他の絵でも見つけました。

ピエール・ゲネガン、マーガレット・ゲネガン両氏蔵
アンリ・ルソー
『田園風景』1875/80

左端に描かれています。これもなかなかの大きさですね。手前に見える建物よりも大きい。ルソーにとってとても印象的なモチーフだったのかもしれません。

そしてそして、細い棒を持った小さな人。つばが大きめの帽子に黒い服という出で立ちです。普通に牛飼いのおじさんかなと思ってたのですが、他の絵で似たよう人物を見つけました。これです。

アンリ・ルソー
『釣り人』1909-1910

ちょっと棒が長めなのですが、とても似ていると思います。でも、この人物は、「釣り人」なんです。牛飼いと思っていたおじさんは、もしかして、釣り人だった?「パリ郊外の眺め バニュー村」をよく観ると、後方に川か池か運河か、とにかく水の風景が描かれています。だったら、釣り人もありですよね。しかも制作年に注目してください。1909-1910です。ほぼ同時期です。ちなみに、この人物は、他の釣りをテーマとしたいくつかの絵の中にも登場しています。そうなってくると、誰なのかが気になってきます。残念ながら筆者の力では分かりませんでした。

  

最後に、最大の謎、左後方のオブジェ?です。これは本当に謎で、結局分からないのですが、いくつか筆者なりの候補はあります。
ルソーはパリの税関職員でしたので、パリの風景には馴染みがあったはず、ということでエッフェル塔(1889年完成)です。遠目から見るとなんとなく例のオブジェに見えなくもないかと。ルソーはモチーフの実際の大きさにはとらわれないので、エッフェル塔もありかなと思ったのですが、ちょっとあまりにもですよね。(※ルソーの絵の中には、確実にエッフェル塔として描いたものもあります。残念ながら例のオブジェとは全く違った形状をしています。)
次の候補は、グラン・パレの屋根上部。グラン・パレは1900年のパリ万博のために建てられた大規模展覧会場です。ルソーもパリ万博へ行って感動したはずです。その印象を絵に描き込んだかも。
3番目の候補は、バスティーユ広場のモニュメントです。かつてバスティーユ牢獄があった場所です。フランス7月革命を記念するオブジェとして1830年に建てられました。フランス共和主義の重要なシンボルです。

ウジェーヌ・ガリアン=ラルー(1854-1941)
「バスティーユ広場」

ルソーは1909年、「パリ郊外の眺め バニュー村」の制作年と同じ年に、手形詐欺事件に関わったされ、拘留されています。利用されただけという説もあり、真相は明らかになっていませんが、拘留はされたのです。バスティーユ広場の元はバスティーユ牢獄、イメージが繋がりそうですが… どうでしょうか?

とにかく謎の多い画風なので、イメージが自由に膨らみますよ。