大原美術館:『夕暮の小卓』シダネル

大原美術館の中で、かなり人気の高い絵だそうです。

大原美術館
アンリ・ル・シダネル(1862-1939)
『夕暮の小卓』1921

【鑑賞の小ネタ】
・似た構図の作品が複数ある
・シダネルお気に入りの青いテーブル
・さっきまで人がいたような気配
・ジェルブロワにシダネルの庭園がある

シダネルは運河をテーマとした作品をたくさん残しています。1898年にベルギーの古い港町ブルージュを訪れたことがきっかけだったようです。

出展:ベルギーフランダース政府観光局
ブルージュ
「ブルージュの運河」1900

ブルージュといえば、旧市街全体がユネスコの世界遺産に指定されていて、「屋根のない美術館」と評されるほど美しいところだそうです。シダネルも感銘を受けたことでしょうね。大原美術館の「夕暮の小卓」は、詳しい場所が記されていません。どこを描いた絵なのでしょうか?よく似た構図の作品が複数あって、タイトルにしっかり場所が記されているものがあるので紹介します。

「Houses on the Canal,Nemours」

Canalとは運河のことで、Nemoursはヌムールです。(※ヌムールはフランスのコミューンで、コミューンとは日本の市町村に当たります)まず同じ場所の作品とみて良いと思います。そしてヌムールにはロワン運河という運河がロワン川に沿って流れています。この場所は本当にお気に入りだったようですね。

色んな画材で描いてます。塗り方もそれぞれ違います。同じ場所なのに、印象が随分変わるものですね。

ヌムールの運河の別バージョンがこちら。

「The Canal to Nemours.」
「Canal house,Nemours」1903 
インク、鉛筆、パステル、クレヨン

別バージョンでは、運河の幅が大きめですね。
ヌムールではなくアミアンですが、運河をテーマとした作品がこちら。

個人蔵
「運河(アミアン)」1901 
パステル

一貫して、窓からもれる室内の明りがとても印象的ですよね。あの明りがあることで、人の気配を感じ、温かい気持ちになります。暖色系の色(明り)にしているのも効いてますね。人の気配と言えば、机や椅子、机の上にあるものからも感じ取ることができます。シダネルは、この人の気配を感じさせる手法を多くの作品の中に取り入れていて、シダネル作品の特徴となっています。そこに人はいないのに存在を感じるってなんかいいですよね。

次に青いテーブルです。「夕暮の小卓」にも描かれています。椅子も同じとみて良いと思います

シンガー美術館
「青いテーブル(ジェルブロワ)」1923

シダネルは1901年にジェルブロワというパリ北方の小さな村に居を構えました。中世の面影が残る雰囲気のある小さな村で、自分の庭と村全体を薔薇で埋め尽くそうと提案したそうです。やがて村中に薔薇が咲くようになり「フランスでもっとも美しい村」に選ばれるまでになったそうです。
ヌムールジェルブロワは地図で見ると結構離れていますので、ヌムールの運河に青いテーブルを持って行って描いたとは考えにくいです。きっと、自分の好きなモチーフを1つの絵の中に描き込んだのではないかと思います。 

すごい論文をみつけました!引用します。

「夕暮の小卓」は、まず、現場で下描きされて、その後ジェルブロワのアトリエで色を入れたものが描かれ、ジェルブロワにあるテーブルとイスが描き入れられた。それから再び、二日間ほどヌムールに戻って、ディテイルを確かめて、最後はベルサイユのアトリエで仕上げたことをアンリ・ル・シダネルの曾孫で美術評論家のヤン・ファリノー=ル・シダネルからきいた。

弓削商船高等学校 紀要 第35号(平成25年)「Henri Le Sidanerの3つの作品について-水面上の鏡像のずれと隠しサイン-」雙知 延行

素晴らしい!そういうことだったようです。すっきりしました。
ところで、「シダネルの庭」と聞けば、「モネの庭」を思い出しませんか?お互いフランスの画家です。シダネルが薔薇なら、モネは睡蓮でしょうか?モネはシダネルより22歳年上です。どうやら先輩画家だったようで、シダネルはモネのように田舎に庭がもちたいとずっと思っていたそうですョ。

大原美術館:『鐘楼守』ルドン

薄いベールがかかったような絵です。

大原美術館
オディロン・ルドン(1840-1916)
『鐘楼守』1905-10年頃

【鑑賞の小ネタ】
・ルドンは里子に出されていて孤独
・幻想の世界を描き続けた画家
・モローとともに象徴主義
・シュルレアリスムの先駆者
・鐘楼守のモデルは誰なのか?

輪郭がはっきりしない絵だなと思いました。鐘楼守の腕と頭に注目してみてください。なんとなく二重になって見えませんか?左足も全体的に二重に見えなくもないかなと思います。鐘楼守は鐘をつくので、動く様子を二重にすることによって表しているのではという見方があるようです。または、音の振動を表しているとか。

ルドンは裕福な家の息子としてフランスのボルドーで生まれました。ところが、生後2日でボルドー近郊の伯父の家へ里子に出されています。 親元を離れて寂しい幼少期を過ごしました。病弱で内向的な子どもだったそうです。親、特に母親に捨てられた感のある幼少期が、その後のルドンの作風に強く影響して行きます。

不気味な絵です。よく見ると蜘蛛は笑っています。気球に大きな眼が描かれていますが、ルドンにとって眼は重要なテーマだったようです。そしてルドンの代表作はこちら。

クレラー・ミュラー美術館
「キュクロプス」1914

キュクロプス(サイクロプス)はギリシア神話に登場する単眼の巨人です。その捉え方は、神だったり怪物だったりします。ルドンのキュクロプスの表情は、怖いというよりは優しい感じがします。横たわる女性を見守るような、そっと覗いてる感じです。他の画家のキュクロプスだとこんな感じになります。

            キュクロプス

ルドンの表現とは随分違うことが分かります。

何れにしてもルドンの絵は、不思議でちょっと不気味なのです。そうしてみると、「鐘楼守」はルドンにしては、特に不気味さもなく至って普通だなと思います。何(誰)をテーマに描いたものなのでしょうか?フランス、パリ、鐘楼守ですぐに頭に浮かんでくるのは、ディズニーの『ノートルダムの鐘』ですよね。原作はヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)の『ノートルダム・ド・パリ』1831年です。ルドンが生まれる前に発表されている作品なので、ルドンも目にしたかもしれません。

ルドンは1863年に、ロドルフ・ブレスダン(1822-1885)という放浪の画家に出会い、銅版画の指導を受けています。ブレスダンは同時代の作家や詩人と交流していて、その中に、 なんとヴィクトル・ユーゴー もいます。もしこの頃3人が出会っていたとすると、ルドン20代、ブレスダン40代、ユーゴー60代といったところです。

大原美術館の『鐘楼守』が『ノートルダム・ド・パリ』の鐘つき「カジモド」だったとすると、見た目があまりにも違いすぎます。ただ、ルドンは、「キュクロプス」をあのように優しく描く画家なので、「カジモド」もありなのかなと想像してしまいます。

視点を変えて、「鐘楼守」と見た目が似ている絵を探してみました。

ナショナル・ギャラリー
「Saint Sebastian」1910-1912
バーゼル市立美術館
Saint Sebastian」1910

2点とも聖セバスティアヌスです。腰布のみの姿、そして、顔のパーツをはっきり描かない等、色々類似点はあると思います。貼りついたような髪も似てますね。そしてポージングが最も似ているのはこちら。

「Orpheus 」1900

いかがでしょう?足先の向きまでそっくりです。おまけに、木の枝か何かを引っ張ってる感じです。 この絵のモデルはギリシア神話に登場する吟遊詩人「オルフェウス」です。冥界から抜け出すまで後ろを振り返ってはいけないのに振り返ってしまった、というあの神話の主人公ですよね。オルフェウスは竪琴の名手なので、鐘つきもしていたという話がないかなと思い探してみましたが、見つけることが出来ませんでした。

結局モデルは謎のままですが、静かな気持ちになる絵だなと思います。

美観地区の『今橋』

倉敷美観地区内を流れている川、倉敷川は、倉敷川的には上流になります。過去記事でも書きましたが、倉敷川の水源とされる場所は倉敷美観地区内にあります。そして、最も水源に近い所に架かっている橋がこの「今橋」なんです。大原美術館前から旧大原家住宅前へ架けられています。

2020年3月撮影 今橋

【鑑賞の小ネタ】
・短期間で仕上げた橋
・「今橋」は大原孫三郎の字
・デザインは児島虎次郎
・設計は薬師寺主計
・龍の彫りに菊の文様

今橋を美観地区入り口方面(西側)から美観地区内(東側)へ向かって撮影したものです。「今橋」の文字が見えますね。その石柱の上に何か文様が描かれているのが分かります。

2020年3月 今橋と文様

「今橋」の文字は、筆・大原孫三郎です。大正15年、皇太子(後の昭和天皇)の訪問に合わせて、江戸時代末から架かっていた石橋を、橋の幅が狭い上に架設後100年を超えていたということで、大原孫三郎の資金援助により急遽架け替えています。それが現在の今橋なんです。なんと工期はわずか40日間だったと言われています。構造は、石橋のように見えますが実は鉄筋コンクリートで、その上に御影石を積んで仕上げています。

石柱の上の文様は、皇太子に敬意を払って、皇室の家紋である菊をデザイン化したもののようです。天皇家の家紋は十六葉八重表菊で、花弁(花びら)が16枚です。今橋の菊の文様は花弁が12枚になっていますね。皇室の家紋にはその他、菊の花弁が14枚のものもあったりするので、控えめに12枚にしたのでしょうね。

今橋の欄干には、龍の彫りが施されています。

2020年3月撮影 今橋
2020年3月撮影 今橋の欄干 龍の彫り外側

龍は縁起物で、しかも大原孫三郎の干支でもあります。立体的な彫り方をしていますね。欄干の外側は「浮き彫り」になっています。

  

2020年3月撮影 今橋の欄干 龍の彫り内側

欄干の内側です。外側より平面的ですよね。「線彫り」になっています。

龍の彫刻や欄干をデザインしたのは児島虎次郎です。児島虎次郎は画家で、大原美術館の絵を集めた人でもあり、大原孫三郎とは旧知の仲という人物です。ちなみに今橋の全体を設計したのは、総社の建築家、薬師寺主計です。

ところで、橋げたに字が刻まれているのを知ってますか?

2020年3月撮影 今橋の橋げたの刻字

大正十五年五月架之
 設計 児島虎次郎
 工事 藤木正一

ちょっと見えにくいのですが、しっかり刻字されているんです。実際は、設計:薬師寺主計、デザイン:児島虎次郎のはずですが、この刻字ではこうなっていますね。すぐには見つからないと思うので、じっくり探してみてください。

川に目をやると、今橋の下に魚が寄って来てました。

2020年3月撮影 今橋の下の魚

ニゴイとフナが写っているようです。美観地区内の倉敷川はとても管理されていて、ブラックバスやブルーギル等の外来種はほぼ見られません。錦鯉がほどよく泳いでいるようではありますが、基本、在来種が生息してる川と言ってよいと思います。アユの稚魚がいたという話を聞いたこともあります。そして、もちろん、美観地区内の倉敷川での釣りは禁止となっています。
※ニゴイは日本固有の淡水魚で、我々がよく見かけるコイは外来種です。

大原美術館:『雅歌』モロー

絵のサイズは小さいのですが、とても繊細に描かれています。

大原美術館
ギュスターヴ・モロー(1826-1898)
「雅歌」1893

【鑑賞の小ネタ】
・モローは美術学校の教授
・象徴主義の先駆者
・教え子にマティスとルオー
・『雅歌』はなんと水彩画
・盗難の過去あり

過去記事《ふさがれた窓》でも紹介しましたが、盗難の経験をもつ絵です。38.7×20.8㎝という小ぶりの絵ですが、とても存在感があります。普通に油絵と思って見ていたら、なんと紙の上に水彩ということで、びっくりしました。こんな風に描けるものなんですね。

モローは聖書や神話を題材に幻想的な作風で知られていて、象徴主義(目に見えないものを物語を借りて象徴的に見える形にする)の先駆者とされています。有名どころをいくつか紹介します。

メトロポリタン美術館
「オイディプスとスフィンクス」1864年頃
ルーヴル美術館
「出現」1876年頃

モローは1888年に美術アカデミー会員に選ばれていて、1891年にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)の教授にもなっています。聖書や神話を題材とするあたりは、まさにアカデミーって感じなのですが、脚色がとにかく凄いです。アカデミックなのにかなり攻めてるって感じです。その辺りが象徴主義の先駆者と言われる所以なのかもしれません。

モローの教育方針は、個性を尊重しその才能を自由に伸ばすことだったそうです。後にフォービスム(内的感情や感覚を色彩を中心に表現)の巨匠となるルオーやマティスが育ったことも頷けます。
モローが活動した時代は、印象派(現実の生活や自然を感じたまま描く)が台頭してきた時代で、1875年には保的的なアカデミー美術展覧会に反発して、「第1回印象派展」が開催されています。そのような時代の流れの中で、モロー自身はアカデミックな世界に身を置いていたわけですが、モローは新しい才能(芸術)を否定するようなことはせず、むしろ認めていたところがあります。事実、愛弟子マティスは、フォービスムまたは印象派の画家としても知られていて、モローがマティスの才能(芸術)の芽を潰していなかったということがよく分ります。モローは『私は君たちが渡っていくための橋だ』と語っていたそうです。モロー先生、素晴らしいですね!
ちなみにルオーは「モロー美術館」の初代館長になっています。

ところで作品名の「雅歌」とは、何でしょうか?旧約聖書の「ソロモンの雅歌」の「雅歌」のようです。ソロモンは、古代イスラエルの王で、ダビデ(ミケランジェロのダビデ像で有名)王の息子です。「ソロモンの雅歌」はソロモン作で、恋愛と男女の賛美を歌い上げる詩とされていますが、諸説あるようです。聖書の解釈はとにかく難しく、議論が絶えないようですね。芸術、特にヨーロッパの芸術は、聖書と神話の世界をある程度把握しておかないと、今一つピンと来ません。サラッと勉強してから鑑賞すると、もっと芸術がおもしろくなるかもしれませんね。

美観地区に溶け込む石塀

大原美術館前の石塀です。

2020年2月撮影 大原美術館の石塀

白壁の蔵屋敷に見事にマッチした石塀だと思います。石の種類は「御影石」です。大原美術館本館と分館の間に「新渓園」という庭園がありますが、1930年に大原美術館が建築される前までは、この石塀の辺りまで庭園だったそうです。大原美術館の現在正門となっている石塀が庭園の入り口で、新渓園の現在の正門は、当時の通用門だったそうです。

2020年2月 大原美術館の石塀と正門

石塀には通常ツタがはっていますが、今は季節的に葉が落ちているので、石塀の様子がよく分ります。石塀と大原美術館の外壁の色に注目してみてください。同系色ですよね。御影石(花崗岩)の色は、白や黒、赤系等、バリエーションに富んでいるのですが、この石塀の色はとても自然な感じの色なので、違和感なく美観地区に溶け込んでいると思います。そして後方の大原美術館の外壁も黄土色のような、石塀に近い色をしています。

石塀と大原美術館の設計者は薬師寺主計(やくしじかずえ)です。岡山県総社市生まれで、陸軍省建築技師として活躍した建築家です。一見、石造りのように見える大原美術館の柱や外壁は、実はコンクリート造りなんだということは、以前の記事でも紹介しました。今回はコンクリートの色についてなのですが、どうやらこのコンクリートの外壁は、色のついた石を粉にし、その粉を混ぜたモルタルで仕上げられているようです。細かく色の調整をしたんですね!御影石の色に合わせたのだと思います。そして、石塀に使用された御影石は、そもそも庭園にあった石積み塀を現在のものに造り替えたと言われています。[参考資料:おかやまの歴史的土木・近現代建築資産HP]

2020年2月撮影 大原美術館の柱と外壁

色はどうでしょうか?もしこれが真っ白だったら、そうでなくても異国風の建築様式なのに、美観地区から浮き上がっていたかもしれません。そもそもそこにあった石(御影石)を石塀にし、その石塀の色に合わせて外壁を塗った結果、両者ともに美観地区に溶け込む外観を実現することができたということだと思います。考え抜かれた仕事振りに感動します。

2020年2月撮影 石塀と喫茶エル・グレコ

大原美術館の側にある「喫茶エル・グレコ」の外壁も違和感なく溶け込んでいます。こちらも薬師寺主計の設計です。全体的に統一感のある仕上がりとなっています。

余談ですが、江戸城の今も残る天守台は、御影石(花崗岩)です。 貴重な石というわけです。すぐに葉っぱが茂ってきますので、今のうちにじっくり石塀も見てほしいものです。