美観地区の常夜燈近くの一本の柳

まるで古木を利用した盆栽のようです。

2020年4月撮影 常夜燈近くの柳

横から見るとほんとに薄いです。

2020年4月撮影 横から見た柳

ほとんど幹がないのに、新芽を出して生き続ける姿に、柳(植物)の底力を感じました。どうしてこのような姿になったのでしょう?以前の姿はどのようなものだったのでしょうか?妙に気になって、この柳だけに注目して色々と画像を探してみました。

2017年までは、普通に幹もあり、葉っぱも茂っています。美観地区の柳は、定期的に剪定が行われていますので、手入れが行き届いている印象です。

2018年に突然このような姿になっています。何があったのでしょう?2019年8月中旬の台風10号の影響で、5本の柳が倒木などの被害に遭っていますが、2018年の段階で既に切り株状態になっていますので、この台風が原因ではないですね。2018年の切り株では、向かって右側の小枝から主に緑が茂っているように見えます。ところが、2019年の切り株では、向かって左側の小枝が立派に成長し、柳っぽく葉をつけているのが分かります。かすかに残る右側の小枝には緑が見えません。

そして2020年4月現在の切り株部分がこちら。

2020年4月撮影  柳の根元アップ

切り株の幹の部分はほとんど崩れ落ちています。おがくずのように細かく崩れているところをみると、何か虫が入ったのでしょうか?アリや甲虫の幼虫(イモムシ)とか。ちなみに筆者はクワガタの朽ち木採集に何度も行ったことがあるので、この様子に見覚えがあります。クワガタの幼虫(イモムシ)は朽ちた木の中で見つかることが多くて、その周辺は大抵こんな感じに木の繊維がバラバラになっているんです。クワガタは違うにしても、甲虫仲間のカミキリかもしれませんね。カミキリムシの幼虫は、樹木の天敵のようですから。

柳の切り株 小枝の変化略図

切り株の変化が解りやすいように図にしてみました。小枝や幹が失われても、最後に残った枝に葉をつけてスッと立ってる姿に感動しました。柳の剪定の度に、大事に残されてきたことがうかがわれ、プロの良い仕事だなと思いました。

いつまで緑の葉をつけてくれるか分かりませんが、今後もこの柳を気にしながら散歩しようかなと思ってます。

美観地区の『高砂橋』

美観地区の最南端に位置する橋です。

2020年4月撮影 高砂橋

【鑑賞の小ネタ】
・実は旧「今橋」
・旧高砂町に移され「高砂橋」と改名
・美観地区の石橋で最古の橋

高砂橋(タカサゴバシ)のたもとにある説明書きです。

高砂橋沿革の説明書き

旧今橋だったんですね。弘化3年(1846年)に大阪今橋の長者、鴻池氏にあやかりたいと願いを込めて命名されたそうです。大正15年(1926年)に旧高砂町(現在の中央2丁目付近)へ移され、「高砂橋」と改名されたんですね。ところで、高砂町は地図上ではどのあたりなんでしょうか?

出展: 「絵図で歩く倉敷のまち」吉備人出版 
巻末折込み 「市制記念 倉敷市新地図(昭和3年)」の一部

ありました高砂町。確かに現在の中央2丁目付近です。では「高砂橋」はどの位置でしょうか?昭和3年の地図なので、既に移されているはずです。それらしい橋をオレンジで囲んでみました。すぐ近くに「天文臺(台)」があるのが分かりますか?この天文台は「倉敷天文台」で、日本初の民間天文台なんですョ。今でも現役で天体観望会を行っています。そして大正15年(1926年)に設立となっています。なんと、旧今橋が高砂町へ移された年と同じではありませんか!

  

歴史のある橋を保存するために、美観地区南端に架かっていた「前神橋」を撤去して現在の場所に移築したようです。これは、 昭和42年(1967年)の美観地区の整備 と倉敷用水路の改修に伴うものでもありました。

高砂橋の石柱

写真左の石柱には、変体仮名で「たかさごはし」と書かれていて、元の漢字は「多可左古者之」です。「古」の変体仮名には点々がふられてます。「中橋」の変体仮名と同様、なかなか読めませんよね。写真右の石柱の文字は「高砂橋」と読めますね。

高砂橋の石柱と高砂橋からの眺め

この石柱には「大正十五年六月架之」と刻まれているようです。旧今橋が移築され、高砂橋に改名された時の表記となっています。右の写真は、高砂橋から北(美観地区方面)を写したものです。そして遠近法で言えば、消失点あたりに「中橋」がかすかに見えています。

2020年4月撮影 高砂橋

「高砂橋」の西側から東へ向かって撮ったものです。この写真も消失点がはっきりしています。中心に向かって線が見えるようです。

詳細ははっきりしないのですが、「高砂橋」が移築される前、つまりまだ「前神橋」だった頃、コンクリート製の橋が架けられていた時期があるようです。現在よりも川幅があったはずなので、石よりもコンクリートの方が造るのに都合が良かったかもしれませんね。そしてもっと過去にさかのぼると、木製の橋が架かっていたことは確かです。また調べてみたいと思います。

2020年4月撮影 

美観地区の『常夜燈』

常夜燈は、中橋と川舟乗場の間にあります。

2020年4月撮影 常夜燈

ベストポジションで設置されています。写真奥には、中橋や倉敷館(観光案内所)が見えます。常夜燈には文字が刻まれています。こちらです。

2020年4月 常夜燈の刻字

寛政三年、常夜燈、倉敷 講中、金毘羅大権現 と刻字されています。寛政三年は1791年で、講中(コウジュウ)とは仏事や神事を行うための信仰者の集まりのことです。そして、金毘羅大権現(コンピラダイゴンゲン)は香川県琴平町の金刀比羅宮(通称こんぴらさん)にまつられる神のことです。海神として船乗りなどの信者が多いそうです。

この常夜燈は、倉敷川が運河だった頃、運河(川)をさかのぼる船の目印となるよう「川灯台」として寛政3年(1791年)に設けられたものです。大正初め頃まで、毎晩灯火されていたと言います。元は、当時の前神橋(美観地区最南端の橋)の船着場に設置されていたそうで、昭和33~34(1958~59)年頃、現在の位置に移設されました。

元の設置場所が妙に気になり、調べてみました。現在、美観地区の最南端には、2本の橋が平行に架かっています。「高砂橋」と「前神橋」です。高砂橋は歩行者専用の石橋で、前神橋はアスファルトで舗装された自動車が通行可能な橋です。そして常夜燈は前神橋の東詰(東の隅)にあったとされています。これがややこしいのです。現在の前神橋の東の隅というとこちらになります。

現在の「神前橋」の東の隅

写真中央なのですが、どうもピンときません。どうやら、現在の前神橋は、昭和29年(1954年)に新しい前神橋として古い前神橋の下手に並行して新たに架けられたものなんだそうです。つまり、現在の高砂橋の位置に架かっていた橋こそ、かつての前神橋で、この橋の東の隅に常夜燈があったということなのだと思います。

となると、現在の「高砂橋」の東の隅に常夜燈はあったはず。

「常夜燈」元の設置場所予想図Ⅰ

写真左が高砂橋です。奥が東方向になります。この写真ではギリギリ見えませんが、右側が現在の前神橋です。自動車が通っているのが分かります。写真中央の黄色の楕円辺りに常夜燈はあったのではないでしょうか?昭和初期の地図を見てみます。

出展:「絵図で歩く倉敷のまち」吉備人出版 
巻末折込み 「市制記念 倉敷市新地図(昭和3年)」の一部

オレンジで囲んだ部分がかつての「前神橋」だと思います。まだ橋は1本ですね。現在の地図はこちら。

出展:倉敷物語館前の立て看板
岡本直樹「倉敷川畔美観地区鳥瞰絵図」の一部

オレンジで囲んだ部分は現在の「高砂橋」です。微妙な位置が今一つ分かりにくいのですが、橋の右側(東側)の細長い土地に注目です。どちらの地図にもあります。昭和3年の「倉敷市新地図」をよく見ると、「無料診療」と書かれています。公的な診療所があったみたいですよ。

2020年4月撮影 細長い土地

現在もこの細長い土地は残されていて、複数の植え込みがあるのが分かります。ポストや公衆電話もありますね。少し話が逸れてしまいましたが、両方の地図を見比べてみてください。細長い土地や建物、橋や道、これらの位置関係から、「常夜燈」の元の設置場所はまずここで間違いないと思います。

「常夜燈」元の設置場所予想図Ⅱ

※常夜燈は、昭和29年(1954年)の新前神橋の改修に伴い、一度解体されているようです。

続・大原美術館:『鐘楼守』ルドン

ルドンはフランスの象徴主義の先駆者です。象徴主義で忘れてはならないのが、ベルギー象徴派です。ベルギーの首都ブリュッセルで、1883年に芸術家グループ『レ・ヴァン(Les XX)(20人展)』が結成されました。雑誌を刊行したり、展覧会や講演会を開き、外国作家を招待するなど、その活動はとても活発なものでした。招待された外国作家の中に、ルドンもいました!

『レ・ヴァン』は10年に渡り毎年展覧会を開催しました。ルドンは1886年、1888年、1890年に参加しています。

1890年『レ・ヴァン』展覧会のポスター 

赤で囲みましたが、Odilon Redonの名前があるのが分かります。

ベルギーと言えば、運河のある古都ブルージュ(ブルッヘ)が有名です。ブルージュは中世の街並みが残る神秘的な都市なので、象徴派の人々にとっては心の故郷だったようです。そしてそして、「ブルージュの鐘楼」です。

出展:ブルージュ公式ホームページより
「ブルージュの鐘楼」

「ベルギーとフランスの鐘楼群」は世界遺産に登録されていて、「ブルージュの鐘楼」はその中の1つになっています。

ルドンは、オランダやベルギー方面へ何度か旅行に行っていることが分かっています。ルドンは象徴主義、ベルギー象徴派の活発な活動、ルドンはベルギーへ何度か訪れている、ベルギーのブルージュは象徴主義の心の故郷、ということから、『鐘楼守』の鐘楼は、「ブルージュの鐘楼」かもしれません。

アンテナを張って生活していると、あれ?と思うことが時々あります。気が付いたことがあったら、また紹介したいと思います。

美観地区の『中橋』

美観地区(倉敷川)のほぼ中央に架かる橋です。

2020年4月撮影 中橋

【鑑賞の小ネタ】
・コンクリートではなく石橋
・太鼓状に湾曲
・橋桁はなんと一枚岩
・橋柱に刻字された文字に注目
・川舟に乗らないと見られない文字あり

倉敷川の最上流に「今橋」が架かっていて、川を下って次に現れるのが「中橋」です。約10mの川幅に架けられている橋で、明治10年(1877年)に、れまで木造だった橋を石橋に架け替えたそうです。橋桁 (欄干の下の部分) は花崗岩の一枚岩で、太鼓状に湾曲しています。そして、桁の長さは、全国の石桁橋の中で最長なんだそうです。

2020年4月撮影 中橋の橋桁
2020年4月撮影 中橋の橋桁

橋柱に文字が刻字されています。

2020年4月撮影 中橋の橋柱の刻字

当時の倉敷村会議員だった原唯七によって漢字と変体仮名で刻字されたそうです。この「槗 」という漢字は「橋」の異体字で、変体仮名(なかはし)の元の漢字は「奈可者之」のようです。これはなかなか読めませんよね。

中橋のたもとは、人力車の乗り場にもなっています。

2020年4月撮影 中橋のたもとの人力車

主な乗り場は倉敷物語館前なのですが、中橋のたもとでも乗り降りできます。営業時間は、9;30~日没までとなっています。

中橋の内側に、橋が作られた年と作った人の名前が刻み込まれているのですが、川舟に乗らないと見えません。筆者は川舟に乗って中橋の下をくぐったことがあるのですが、夕暮れ時だったため、はっきりと確認することができませんでした。刻字に興味のある方は、天気の良いお昼間をお勧めします。
《くらしき川舟流し》の川舟乗船場は中橋を少し下ったところにあります。

ところで、中橋は壊れたことがあるようですよ。自動車が渡ったからみたいです。石橋でも壊れるんですね。中橋を渡ると分かるのですが、段があるんです。そして、短い石柱が橋の両側に2本ずつ立っています。これは、自動車の侵入を防ぐためだったようです。

2020年4月撮影 中橋の短い石柱と段

向こう端(写真奥)の方が、段差が少し大きいように思います。こちらです。

2020年4月撮影 中橋の短い石柱と段

何でこんな所に不自然な段差と石柱が?とよく思っていましたが、自動車侵入による破損の歴史があったんですね。