大原美術館:『愛国(習作)』シャヴァンヌ

登場人物の関係性が気になる絵だなと思いました。

大原美術館
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)
『愛国(習作)』1893

【鑑賞の小ネタ】
・女性は誰なのか?
・少年はどうして裸?
・男性が持っている布に注目
・背景はどこの海?
・全体に光を感じる描き方

男性か男性の後方を指す女性は誰なのでしょうか? きっと、聖ジュヌヴィエーヴ (419/422ー512) だと筆者は思っています。

 

パンテオン(パリ)
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
「眠るパリの街を見おろす聖ジュヌヴィエーヴ」1989

シャヴァンヌはパリのパンテオンで、聖ジュヌヴィエーヴの連作を手掛けていて、当時のシャヴァンヌにとって大事なテーマになっていたことは間違いなしです。そして聖ジュヌヴィエーヴはパリの守護聖人なので、『愛国』という作品名にもぴったりです。

ゴッホ美術館
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
「祈りを捧げる少女時代の聖ジュヌヴィエーヴ」1876

聖ジュヌヴィエーヴはパリ近郊で生まれ、少女の頃は羊飼いだったと言われています。 ゴッホ美術館所蔵のこの絵は、聖ジュヌヴィエーヴの少女時代を描いたもので、白い服を着て祈っている姿が見えますね。後景にはたくさんの羊がいます。

『愛国』の女性は、目の前の男性に、男性か男性の後方を指しながら、強く何かを言っているように見えます。そして右手で布に手をかけています。この白い布に注目してみてください。うっすらと何か見えてきませんか? 

フランスの国旗なんです!縦にした感じです。男性に対して、フランスのために力を尽くして!とか言ってるのでしょうか?

フランスの国旗(トリコロール)

では、この男性はどんな人なんでしょう?なかなか難しいです。服は、普段着のような作業着のような、軍服には見えませんよね。帽子がヘルメットのような硬い素材に見えなくもないですが… 聖ジュヌヴィエーヴは5世紀の人なので、その当時の人かもと思い考えてみましたが、帽子や服の襟元、そして履いているブーツなどから、5世紀の服装にはとても見えません。ある意味、イマドキな感じがするのです。 とりあえず、この男性は、この絵が描かれた19世紀頃の庶民で良いのではないかと思います。 男性が持っているフランスの国旗、トリコロールは5世紀にはまだありませんしね。

ところで、男性の服の色、なんとなく青っぽく見えませんか?青色の服は、羊飼いがよく着ています。聖ジュヌヴィエーヴは少女の頃羊飼いだったので、この男性が羊飼いというのもありなのかもしれませんね。そして、旗が括られているように見える男性の持つ「棒」、この棒にも注目です。「棒」は、羊飼いを表現する時によく描かれるアイテムなんです。ますます羊飼いに見えてきました。

残るは裸の少年です。3人の中で、一番白く光るように描かれているように思います。そこに実在しない感じで、幻影のようです。左手に麦のような何かを持ち、右手にリング状のものを持っています。リング状のものをよく見ると、葉っぱが描かれているようにも見えます。月桂冠でしょうか?月桂樹はギリシャ神話の光明神アポローンの霊木です。光明神とは光り輝く神ということです。この少年、白く光るように描かれていますよね。アポローンは、芸能・芸術の神羊飼いの守護神なんだそうです。羊飼いの守護神、やはり男性は羊飼いで、少年は光明神アポローンなのかもしれませんね。そして人ではない神ならば、裸で描かれるのもありです。

少年が持つ左手ののようなものは何でしょう?なんと、聖ジュヌヴィエーヴには麦にまつわる話がいくつかあるんです。フランク族にパリが包囲され、市民が飢餓に陥った時、ジュヌヴィエーヴの指示で勇気ある人々がパリから脱出し、を持ち帰り、パリの人々を助けたという話が残っています。そしてこの頃から、ジュヌヴィエーヴはパリの守護聖人になっているようです。また、12世紀のフランスで、死にいたる重篤な症状を惹き起こすことがある麦角病(麦などの穀物に寄生する麦角菌による食中毒)が流行した時、聖ジュヌヴィエーヴの棺を見たり触ったりした多くの市民が癒されたと伝えられています。ということで、少年が持っているのは麦でどうでしょうか?

アポローンをさらに調べてみると、病を払う治療神というのがありました!

この流れで考えていくと、背景の海はきっと地中海なんだと思います。シャヴァンヌは古典文学や神話から題材を取ってきて作品にしていることが多いので、ギリシャ神話・ローマ神話と言えば、やはり地中海でしょうね。

『愛国』は、時代を越えて、異なる立場の人たちが、何らかの目的のために集っているような絵だと思います。流行り病に打ち勝て!とでも言うような…。

大原美術館:『幻想』シャヴァンヌ

物語の挿絵のような絵だなと思いました。

大原美術館
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)
『幻想』1866

【鑑賞の小ネタ】
・実は真の壁画装飾家のシャヴァンヌ
・フレスコ画(壁画の技法)の研究をしている
・『幻想』は4点の装飾画のうちの1つ
・画中の女性は蔓(ツル)を天馬に投げている
・白い花は何の花?

ほんとに幻想的な絵だと思います。全体的に青いのが効いてますね。シャヴァンヌは19世紀後半のフランスで、唯一、真の意味での壁画装飾家なんだそうです。1846年のイタリア旅行を機に画家を志し、ロマン主義の巨匠ドラクロワやアカデミスムの画家トマ・クチュールらに師事しました。この『幻想』は油彩画なのですが、イタリア旅行の際にシャヴァンヌはフレスコ画(生乾きの壁面に直接描く壁画の技法)にとても魅せられたそうです。そしてその後の作品に、フレスコ画の影響(色調や表現)が強く見られるようになります。

『幻想』は4点の装飾画のうちの1つで、彫刻家クロード・ヴィニョンの邸宅を飾るために描かれました。他の3点はこちら。

トゥルコワン美術館所蔵

シャヴァンヌは、フランスの美術館やパリ市庁舎、図書館や大学講義堂など、公共の建物の壁画を数多く残しています。パンテオン(パリ)の壁画も手掛けています。

パンテオン(パリ)
「眠るパリの街を見おろす聖ジュヌヴィエーヴ」1898

パンテオンの壁画の一部で、聖ジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖人)の生涯を描いたシャヴァンヌ連作の一枚です。1898年に亡くなるまで、壁画に従事していました。この作品は最後の作品のようです。(※壁画ではあるのですが、この作品はフレスコ画ではなく、キャンバスに描かれた油彩画で、完成後に壁に貼り付けられたもののようです。)

  

それでは、『幻想』を観てみたいと思います。『幻想』ということなので、自由に想像してみることにします。

まずは天馬ペガススです。ギリシャ神話では、勇者ペルセウスが怪物メドゥーサを退治して、首を討ち取った時に飛び散った鮮血の中から生まれたとされています。気性の荒い馬で、人間を誰も近づけようとしませんでした。女神アテナが黄金の馬勒(バロク※くつわのこと)をつけてようやくコントロールできるようになったと言います。この馬勒には、手綱説もあり、今回は手綱を採用したいです。というのも、この女性、よく見ると細い蔓(ツル)のようなものを天馬に向って投げているんです。手綱と蔓、イメージが繋がります。

アテナは、知恵、芸術、工芸、戦略を司る女神です。アテナのアトリビュート(絵画や彫刻などで神や人物の役目・資格などを表すシンボル)は、オリーブ、蛇、フクロウ、メドゥーサの首、兜、雄鶏、槍などです。勇ましいアトリビュートが多いですね。『幻想』の女性の周りには、それらしいアテナのアトリビュートはないように思います。あるのは青い衣服(マント)らしき布です。

青いマントと言えば、聖母マリアのアトリビュートです。アテナではなく、聖母マリアなのでしょうか?聖母マリアのアトリビュートには、青いマントの他に棘(トゲ)のないバラの花というのもあって、女性の足元の白い花はバラ科の花に見えなくもないです。花がちょっと小さいですが、野イチゴとかどうでしょう?鋭い棘もありませんし。

出展:みんなの趣味の園芸HP
   ワイルドストロベリー(野イチゴ)

ワイルドストロベリー(野イチゴ)はバラ科で原産地はヨーロッパ、アジアです。イチゴの花は、キリスト教では、聖ヨハネと聖母マリアのエンブレム(人物を表す抽象的、具象的な画像)になっているそうです。花弁が5枚、これもどうも意味があるようで、「」は聖母マリアの五つの徳(知恵、従順、謙虚、清貧、慎重)を表すようです。『幻想』の中にも、花弁が5枚の花が確認できますね。

バラと言えば、美の女神ヴィーナスのアトリビュートでもあります。そしてヴィーナスの側にはキューピット(ローマ神話ではヴィーナスの子どもとされる)がよく描かれます。そうなると『幻想』の中の花を摘む少年は、キューピットでしょうか?少年が摘んでいる白い花は、野イチゴらしき花よりも少し大きいように思います。これは何の花なのでしょう?形が似ているのは原種系のクレマチスだと思うのですが…。

出展:みんなの趣味の園芸HP
   クレマチス・アーマンディー
   (原種・アーマンディー系)

この写真のクレマチス・アーマンディーは中国原産なので『幻想』の花とは違うと思いますが、こんな感じの原種系のクレマチスではないかと思うのです。花弁が5枚というのもいいですね。ちなみに、クレマチスのルーツは南ヨーロッパ、中国、日本なんだそうです。そして少年は花輪を持っていますよね。クレマチスは蔓(ツル)性多年草なので、花輪も作れそうです。クレマチスの西洋の花言葉は「精神の美」「創意工夫」「策略」です。

その他、スイセンに見えなくもないですよね。

出展:みんなの趣味の園芸HP
   スイセン

スイセンだとすると、ナルシス(ナルキッソス)と繋がります。水面に写った自分の美貌に恋をして口付けしようとし、そのまま落ちて水死し、そこにスイセンが咲いたというギリシャ神話(諸説よるようです)でおなじみのあのナルシスです。花を摘んでいる美しい少年が描かれているだけに、スイセンそしてナルシスの線もありかもしれませんね。

色んな角度から考えてみましたが、この絵はやっぱり、色んな要素を混ぜ合わせた作品ではないかと思います。『幻想』ですから、それで良いのだと思います。画中の女性は、アテナであり聖母マリアでありヴィーナスでもある。花を摘む少年は、幼いイエス、またはキューピット、そしてナルシストの語源エピソードで有名なナルシスなのかもしれませんね。

最後に後景の山、これは、ヘリコン山でどうでしょう?ヘリコン山は、芸術の神々が住む山です。アテナが飼い馴らした天馬ペガススは、このヘリコン山に住むムーサ(芸術の神々)に与えられたとされています。また、ナルシスが自分の美貌に恋をした泉もヘリコン山にあったと言われています。(※ヘリコン山は実在の山で、ギリシャ中部にある標高1748メートルの連山です。)

神話の世界に引き込まれそうな、なんとも幻想的な絵だと思います。

美観地区の常夜燈近くの一本の柳

まるで古木を利用した盆栽のようです。

2020年4月撮影 常夜燈近くの柳

横から見るとほんとに薄いです。

2020年4月撮影 横から見た柳

ほとんど幹がないのに、新芽を出して生き続ける姿に、柳(植物)の底力を感じました。どうしてこのような姿になったのでしょう?以前の姿はどのようなものだったのでしょうか?妙に気になって、この柳だけに注目して色々と画像を探してみました。

2017年までは、普通に幹もあり、葉っぱも茂っています。美観地区の柳は、定期的に剪定が行われていますので、手入れが行き届いている印象です。

2018年に突然このような姿になっています。何があったのでしょう?2019年8月中旬の台風10号の影響で、5本の柳が倒木などの被害に遭っていますが、2018年の段階で既に切り株状態になっていますので、この台風が原因ではないですね。2018年の切り株では、向かって右側の小枝から主に緑が茂っているように見えます。ところが、2019年の切り株では、向かって左側の小枝が立派に成長し、柳っぽく葉をつけているのが分かります。かすかに残る右側の小枝には緑が見えません。

そして2020年4月現在の切り株部分がこちら。

2020年4月撮影  柳の根元アップ

切り株の幹の部分はほとんど崩れ落ちています。おがくずのように細かく崩れているところをみると、何か虫が入ったのでしょうか?アリや甲虫の幼虫(イモムシ)とか。ちなみに筆者はクワガタの朽ち木採集に何度も行ったことがあるので、この様子に見覚えがあります。クワガタの幼虫(イモムシ)は朽ちた木の中で見つかることが多くて、その周辺は大抵こんな感じに木の繊維がバラバラになっているんです。クワガタは違うにしても、甲虫仲間のカミキリかもしれませんね。カミキリムシの幼虫は、樹木の天敵のようですから。

柳の切り株 小枝の変化略図

切り株の変化が解りやすいように図にしてみました。小枝や幹が失われても、最後に残った枝に葉をつけてスッと立ってる姿に感動しました。柳の剪定の度に、大事に残されてきたことがうかがわれ、プロの良い仕事だなと思いました。

いつまで緑の葉をつけてくれるか分かりませんが、今後もこの柳を気にしながら散歩しようかなと思ってます。

美観地区の『高砂橋』

美観地区の最南端に位置する橋です。

2020年4月撮影 高砂橋

【鑑賞の小ネタ】
・実は旧「今橋」
・旧高砂町に移され「高砂橋」と改名
・美観地区の石橋で最古の橋

高砂橋(タカサゴバシ)のたもとにある説明書きです。

高砂橋沿革の説明書き

旧今橋だったんですね。弘化3年(1846年)に大阪今橋の長者、鴻池氏にあやかりたいと願いを込めて命名されたそうです。大正15年(1926年)に旧高砂町(現在の中央2丁目付近)へ移され、「高砂橋」と改名されたんですね。ところで、高砂町は地図上ではどのあたりなんでしょうか?

出展: 「絵図で歩く倉敷のまち」吉備人出版 
巻末折込み 「市制記念 倉敷市新地図(昭和3年)」の一部

ありました高砂町。確かに現在の中央2丁目付近です。では「高砂橋」はどの位置でしょうか?昭和3年の地図なので、既に移されているはずです。それらしい橋をオレンジで囲んでみました。すぐ近くに「天文臺(台)」があるのが分かりますか?この天文台は「倉敷天文台」で、日本初の民間天文台なんですョ。今でも現役で天体観望会を行っています。そして大正15年(1926年)に設立となっています。なんと、旧今橋が高砂町へ移された年と同じではありませんか!

  

歴史のある橋を保存するために、美観地区南端に架かっていた「前神橋」を撤去して現在の場所に移築したようです。これは、 昭和42年(1967年)の美観地区の整備 と倉敷用水路の改修に伴うものでもありました。

高砂橋の石柱

写真左の石柱には、変体仮名で「たかさごはし」と書かれていて、元の漢字は「多可左古者之」です。「古」の変体仮名には点々がふられてます。「中橋」の変体仮名と同様、なかなか読めませんよね。写真右の石柱の文字は「高砂橋」と読めますね。

高砂橋の石柱と高砂橋からの眺め

この石柱には「大正十五年六月架之」と刻まれているようです。旧今橋が移築され、高砂橋に改名された時の表記となっています。右の写真は、高砂橋から北(美観地区方面)を写したものです。そして遠近法で言えば、消失点あたりに「中橋」がかすかに見えています。

2020年4月撮影 高砂橋

「高砂橋」の西側から東へ向かって撮ったものです。この写真も消失点がはっきりしています。中心に向かって線が見えるようです。

詳細ははっきりしないのですが、「高砂橋」が移築される前、つまりまだ「前神橋」だった頃、コンクリート製の橋が架けられていた時期があるようです。現在よりも川幅があったはずなので、石よりもコンクリートの方が造るのに都合が良かったかもしれませんね。そしてもっと過去にさかのぼると、木製の橋が架かっていたことは確かです。また調べてみたいと思います。

2020年4月撮影 

美観地区の『常夜燈』

常夜燈は、中橋と川舟乗場の間にあります。

2020年4月撮影 常夜燈

ベストポジションで設置されています。写真奥には、中橋や倉敷館(観光案内所)が見えます。常夜燈には文字が刻まれています。こちらです。

2020年4月 常夜燈の刻字

寛政三年、常夜燈、倉敷 講中、金毘羅大権現 と刻字されています。寛政三年は1791年で、講中(コウジュウ)とは仏事や神事を行うための信仰者の集まりのことです。そして、金毘羅大権現(コンピラダイゴンゲン)は香川県琴平町の金刀比羅宮(通称こんぴらさん)にまつられる神のことです。海神として船乗りなどの信者が多いそうです。

この常夜燈は、倉敷川が運河だった頃、運河(川)をさかのぼる船の目印となるよう「川灯台」として寛政3年(1791年)に設けられたものです。大正初め頃まで、毎晩灯火されていたと言います。元は、当時の前神橋(美観地区最南端の橋)の船着場に設置されていたそうで、昭和33~34(1958~59)年頃、現在の位置に移設されました。

元の設置場所が妙に気になり、調べてみました。現在、美観地区の最南端には、2本の橋が平行に架かっています。「高砂橋」と「前神橋」です。高砂橋は歩行者専用の石橋で、前神橋はアスファルトで舗装された自動車が通行可能な橋です。そして常夜燈は前神橋の東詰(東の隅)にあったとされています。これがややこしいのです。現在の前神橋の東の隅というとこちらになります。

現在の「神前橋」の東の隅

写真中央なのですが、どうもピンときません。どうやら、現在の前神橋は、昭和29年(1954年)に新しい前神橋として古い前神橋の下手に並行して新たに架けられたものなんだそうです。つまり、現在の高砂橋の位置に架かっていた橋こそ、かつての前神橋で、この橋の東の隅に常夜燈があったということなのだと思います。

となると、現在の「高砂橋」の東の隅に常夜燈はあったはず。

「常夜燈」元の設置場所予想図Ⅰ

写真左が高砂橋です。奥が東方向になります。この写真ではギリギリ見えませんが、右側が現在の前神橋です。自動車が通っているのが分かります。写真中央の黄色の楕円辺りに常夜燈はあったのではないでしょうか?昭和初期の地図を見てみます。

出展:「絵図で歩く倉敷のまち」吉備人出版 
巻末折込み 「市制記念 倉敷市新地図(昭和3年)」の一部

オレンジで囲んだ部分がかつての「前神橋」だと思います。まだ橋は1本ですね。現在の地図はこちら。

出展:倉敷物語館前の立て看板
岡本直樹「倉敷川畔美観地区鳥瞰絵図」の一部

オレンジで囲んだ部分は現在の「高砂橋」です。微妙な位置が今一つ分かりにくいのですが、橋の右側(東側)の細長い土地に注目です。どちらの地図にもあります。昭和3年の「倉敷市新地図」をよく見ると、「無料診療」と書かれています。公的な診療所があったみたいですよ。

2020年4月撮影 細長い土地

現在もこの細長い土地は残されていて、複数の植え込みがあるのが分かります。ポストや公衆電話もありますね。少し話が逸れてしまいましたが、両方の地図を見比べてみてください。細長い土地や建物、橋や道、これらの位置関係から、「常夜燈」の元の設置場所はまずここで間違いないと思います。

「常夜燈」元の設置場所予想図Ⅱ

※常夜燈は、昭和29年(1954年)の新前神橋の改修に伴い、一度解体されているようです。