大原美術館:『尖端』カンディンスキー

何かが飛んで来て弾けたような絵だなと思いました。

大原美術館
ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)
『尖端』1920

【鑑賞の小ネタ】
・カンディンスキーはロシア出身の画家
・美術,建築の学校「バウハウス」の先生
・抽象絵画の先駆者
・絵画理論家でもある

抽象画というと、何を描いているのか今一つよく理解できないというイメージがあるかもしれません。例えば、次の作品。

ピエト・モンドリアン(1872-1944)
『コンポジション2 赤、青、黄』1930

どこかで見たことがあるような絵ではないでしょうか? 抽象画家の巨匠モンドリアンの作品ですが、何を感じるかはほんとに人それぞれです。そもそも絵画鑑賞というものはそれで良いのだと思いますが、抽象画は特にその傾向が強い画風だと思います。

そうしてみると、カンディンスキーの『尖端』は、抽象画にしては、比較的特定の何かを感じ取りやすいように描かれているのではないかと思うのですがどうでしょう? 例えば、右上の線の集合から、動き(流れ)が感じ取られます。そして、いくつか球状のものが描かれているのですが、これは何なのでしょうか?その他にも、様々な形のものが描かれていますね。筆者の想像では、右上から飛んで来たいくつかの球が中心の何かにぶつかった結果、尖った破片がそこら中に飛び散った、という感じです。前出のモンドリアンの作品よりは、具体的にイメージしやすいのではないかと思うのです。

カンディンスキーはロシアの画家です。ドイツ、ミュンヘンで絵の勉強を始めていて、1917年のロシア革命後、ロシアに戻っています。1918年から1921年まで、ソヴィエト連邦の文化的政治の仕事に携わっていて、美術教育と協同したり美術館の改装を行ったりしています。芸術教育に時間を費やしていたため、制作はほとんどしていなかったそうです。『尖端』は1920年に制作されていますので、その頃の貴重な作品と言えそうですね。この頃のその他の作品を探してみました。

ワシリー・カンディンスキー
『Composition Nr.224(On White 1 )』 1920
カンディンスキー美術館
ワシリー・カンディンスキー
『赤い楕円』1920
トレチャコフ美術館
ワシリー・カンディンスキー
『白の楕円(黒い線)』1919

全体的な印象が『尖端』と似ているように思うのですが、どうでしょう?丸いものと尖ったもの、動きを感じる線。

ところで『尖端』は、戦いをイメージしたものだと聞いたことがあります。この頃のロシアは内戦中(1917年~1922年)なので、そうなのかもしれませんね。そうだとすると、球状のものは砲弾なんでしょうか?戦争がテーマとなると一気にメッセージ性が強くなりますよね。(ちなみに、レーニンは抽象画のような前衛芸術を認めていましたが、スターリンが台頭するにつれて、前衛芸樹は軽視されるようになって行きます。)

カンディンスキーは1921年にドイツに亡命します。ロシアを去るまでの間、モスクワ大学の教授を務めたり、教育人民委員部造形芸術局のメンバーになったりと、美術理論家としてロシアの新しい芸樹の可能性を模索していたようです。そしてドイツでは、「バウハウス( 絵画,彫刻,建築,工芸教育に革新的な方法を用いたドイツの総合的造形学校 )」の教官を務めることとなります。

『尖端』は、ロシア内戦中の、ドイツへ亡命する前の、とても大事な時期の作品だと思います。どんな気持ちで描いたのでしょうね。内面を表現することを重視したカンディンスキーです。描いた時の画家の気持ちを想像しながら鑑賞するのもいいですね。

大原美術館:『かぐわしき大地』ゴーギャン

インパクトの強い作品です。色使いも凄いですね。

大原美術館
ポール・ゴーギャン(1848-1903)
『かぐわしき大地』1892

【鑑賞の小ネタ】
・ゴーギャンはゴッホの友人
・南国のタヒチで描いている
・エデンの園やイヴとの関係性
・浮世絵や七宝焼きの影響

ゴーギャンはフランスを代表する画家です。南フランスのアルルでゴッホと共同生活したことは有名ですね。結局2か月でけんか別れしましたが、その後、南太平洋の島、フランス領ポリネシアのタヒチへ渡っています。この女性は、タヒチでゴーギャンと過ごした現地の14歳の少女、テハアマナ(通称テフラ)です。ゴーギャンはタヒチで何人かの少女と過ごすのですが、その中の1人です。

『かぐわしき大地』は、テレビ東京の番組「美の巨人たち」で、「原始のイヴ」とも呼ばれると解説されていました。アダムとイヴのあのイヴですね。

『異国のエヴァ』という女性のポーズがよく似ている作品があります。『かぐわしき大地』と関係が深そうですョ。こちらです。

ポーラ美術館
ポール・ゴーギャン
『異国のエヴァ』1890-1894

左手の手のひらの向きが違いますが、全体的によく似たポーズをとっていますね。『異国のエヴァ』は、タヒチへ渡る以前に描かれたもので、これから向かう南国の島を想像して、「エデンの園」として表現しているようです。この作品のエヴァの顔は、母アリーヌの写真に基づいて描かれているそうです。

『かぐわしき大地』では、エデンの園の禁断の果実は南国風の花になっています。禁断の果実はリンゴというイメージが強いように思うのですが、裸であることを恥じてイチジクの葉で局部を覆ったことから、果実はイチジクだという説もあるようです。ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画で、イチジクを描いています。

システィーナ礼拝堂 天井画  1508年 – 1512年
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)
『アダムとイヴの原罪とエデンからの追放』
出展:Wikipedia イチジク

葉っぱの形状でイチジクだと分かりますね。ゴーギャンの『異国のエヴァ』の木の方も、果実の大きさ、葉っぱの形から、イチジクに見えるのですがどうでしょうか?

そして、エヴァ(イヴ)をそそのかすヘビは、小さなドラゴンのような赤い翼をもったトカゲになっていますね。ヘビがエヴァに囁いたように、トカゲが少女テフラに何か囁いているようにも見えます。このトカゲ、赤い翼はさすがにないようなのですが、タヒチに生息するトカゲなんだそうですョ。

ところで、大地の色、かなり独特だと思いませんか?境目がはっきりしていて、まるで切って張ったようです。この頃ゴーギャンは、クロワゾニスム(平坦な色面と輪郭線を特徴とする描き方)に向かっていました。中世の七宝焼きから来ている装飾技法のようです。(※クロワゾネとは有線七宝のことです。)また、ゴーギャンは 日本の浮世絵の影響も強く受けているようですョ。

   

1892年、『かぐわしき大地』と同じ頃に、少女テフラをモデルとして描かれた作品が他にもあります。

オルブライト=ノックス美術館
ポール・ゴーギャン
『死霊が見ている』1892

死霊とは穏やかではありませんが、ゴーギャンは「生命」というものについて深く考えた人生だったように思います。タヒチ滞在期に、『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』という集大成的な作品を残しています。

ボストン美術館
ポール・ゴーギャン
『 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 』1897-1898

ムンクの『叫び』と壁画『太陽』

大原美術館には『叫び』はないのですが、この作品はあまりにも有名なので、ちょっと触れたいと思います。

オスロ国立美術館
エドヴァルト・ムンク (1863-1944)
『叫び』1893

『叫び』は、全5点(テンペラ1893、パステル1893、パステル1895、リトグラフ1895、テンペラ1910?)あります。テンペラとは、混ぜ合わせるという意味のラテン語を語源としていて、顔料を卵や膠(にかわ)などで混ぜ合わせた絵の具を用いる絵画技法のことです。(※ 膠とは、 動物の骨,皮,腱 などを水で煮て抽出したゼラチンを主成分とする物質のことで、粘着剤として使用します。)

作品名にもなっている『叫び』、絵の中の人物が叫んでいるわけではないことを知ってますか?どう見ても、「うぉ~」とか「わぁ~」とか叫んでそうなのですが。「自然を貫く果てしない叫び」に怖れおののいて、耳を塞いでいる姿を描いたものなんです。この人物にはきっと何かが聞こえたのでしょうね。

『叫び』は、ムンクがみた幻覚に基づいて制作されたもので、その時の体験を日記にも残しています。少し抜粋すると、「 ・・・友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。 」  絵の中には、歩道の先に人(友人)の姿も見えますし、耳を塞いでいる人物は、まずムンク自身でいいのではないかと思います。

ちなみに、ムンク自身が『叫び』の1作目としている作品がこちら。

ティール・ギャラリー蔵
エドヴァルド・ムンク
『絶望』1892

1892年なので『叫び』よりも前の作品ですね。しかも作品名は『絶望』。苦しい雰囲気が漂っています。同じ『絶望』という作品名で、1894年のものもあります。

ムンク美術館
エドヴァルト・ムンク
『絶望』1894

ところで、夕焼けの色が強烈だと思いませんか?オスロ市あたりのフィヨルドの夕焼けは、ほんとにこんな感じの色みたいですョ。

出展:婦人画報HP掲載 伊藤信 撮影

オスロ市内の丘からオスロフィヨルドの夕焼けを写真家の伊藤信さんが撮影したものですが、確かにちょっと不安になるような色をしていますよね。本当に何か聞こえてきそうです。

『叫び』の夕焼けの中に、文字が書き込まれているのを知ってますか?薄くてとても見えにくいのですけど、鉛筆で 「Kan kun være malet af en gal mand !(狂人にしか描けなかっただろう)」 と書かれているそうです。

ムンクの『叫び』1893 の一部

青色で囲んだあたりにほんとに薄っすらと書かれています。ムンクが書いたのか他人が書いたのか不明なんだそうです。ムンクが亡くなった後に書かれたものではないようなので、この書き込みについてムンクは知っていたということになりますよね。何れにしても、ムンクは消さずに残しました。(参考資料:artscapeサイト エドヴァルド・ムンク《叫び》- 震える魂「田中正之」影山幸一)

  

悩み多きムンクですが、オスロ大学の講堂の壁画に、明るく力強い作品を残しています。

オスロ大学所蔵
エドヴァルド・ムンク
『太陽』1911年から1916年制作

最初にこの作品を見た時、誰の絵なのか分かりませんでした。ムンクがこんなに光り輝く力強い絵を描くとは思わなかったんです。この作品は壁画の正面になります。横の壁にも描かれています。希望あふれる学生たちの集う場所にぴったりな作品だと思います。

それにしても『叫び』と『太陽』のあまりの画風の違いに驚かされます。『太陽』のような絵も描くようになるのだということを頭に入れて、改めて『叫び』を鑑賞してみると、ちょっと見方が変わっておもしろいかもしれませんョ。

番外編:水槽の外観と額の絵

水槽の外観は、こんな感じです。

自宅の60㎝水槽と額の絵

現在は川魚水槽でもあるので、アクアリウム的には、地味な感じですが、結構気に入っています。時々縄張り争いをしているようですが、みんな元気です。エビも。

コリドラスが5匹いるので、どうしても水が濁ります。底砂をモグモグしながら動き回るので。底砂を細かい石かサンゴにすれば、随分濁り方が違ってくるのは分かっているのですが、どうも抵抗があります。筆者的には、硬いタイプの底砂にすると、コリドラスのヒゲが切れてしまうのではないかと思っています。
見栄えはどうでしょうか?白っぽいサンゴの底砂の方が明るい感じがして華やかになるかもしれませんね。でも筆者は、土のような細かい円い粒の軟らかい底砂を採用するようにしています。ちなみに、水草のためには、土のような底砂の方がいいと思いますョ。土タイプの底砂には養分が含まれていますから。

ところで、水槽の上で見切れている額の絵の全貌がこちらです。

ルーブル美術館
フランス・ポスト(1612-1680)
『リオサンフランシスコとフォートモーリス、
 ブラジル』1635年から1639年の間

カピバラがいるのに気づいていただけましたか?特にねらったわけではなかったのですが、水槽の中のカピバラみたいな存在のコリドラスと、絵の中のカピバラがマッチしていて、我ながら密かに感心してしまいました。どちらも動きがかわいくて癒し系の生き物だと思います(^-^)

フランス・ポストはオランダの画家で、アメリカ大陸の風景を描いた最初のヨーロッパ人なんだそうです。

ブエノスアイレス国立美術館
フランス・ポスト(1612-1680)
『ペルナンブーコの風景、ブラジル』1637-1644年頃

筆者は部屋にいくつか額を飾っています。展示替えと称して、額の中のポスター( 筆者の好きな名画のジクレープリント )を時々替えて楽しんでいます。また紹介したいと思います。

大原美術館:『吸血鬼Ⅱ』ムンク

ムンクの有名な作品『叫び』や『マドンナ』と同じく、『吸血鬼』にも色んなバージョンがあります。

大原美術館
エドヴァルト・ムンク(1863-1944)
『吸血鬼Ⅱ』1895-1902
石版・木版

【鑑賞の小ネタ】
・ムンク的には『愛と苦悩(痛み)』だった
・油彩画の構図を反転させた作品
・この男女は誰なのか?

男性がぐったりして、女性が抱えている感じですね。ムンク自身は、「首にキスをしている女性」以外には何の意図もなく、吸血鬼の絵を描いたわけではないと主張しているそうです。

オスロ ムンク美術館
エドヴァルト・ムンク
『吸血鬼(愛と痛み)』1895

当初、ムンクは作品名を「愛と苦悩」としていたようです。ではなぜ『吸血鬼』となったのか?どうやら、ムンクの友人の詩人 スタニスワフ・プシビシェフスキ が、(まるで吸血鬼のようだということで)名付けたといわれています。この友人に注目です。過去記事で紹介しましたムンクの作品『マドンナ』のモデルとされる憧れのダグニー・ユールと結婚したあの友人なんです!ムンクにとっては友人であり恋敵でありなんとも複雑な関係性です。その友人に、吸血鬼のようだと言われ、ムンクはどんな気持ちになったでしょうね。

あまり好意的には受け止められなかったのではないかと思います。 友人プシビシェフスキ は、特に深い意味はなく、見たままの印象を言っただけのような気もしますが。どうなのでしょうね。複雑な人間模様が垣間見られます。

『吸血鬼Ⅱ』では分かりにくいのですが、よく見ると、男性が女性の体にしっかり手をまわしています。そして女性は包み込むように抱きかかえています。確かに、そこに愛があるように見えますよね。吸血鬼を描いたわけではないというムンクの主張が理解できます。 もしかしたら、ムンク自身とダグニー・ユールを描いたのかもしれませんね。

後になって、次のような絵を描いています。

オスロ ムンク美術館
エドヴァルト・ムンク
『森の吸血鬼』1916-1918

バックに色が入りましたね。全体が明るくなった印象です。前景の男女は、これまでの「吸血鬼」とほぼ同じ構図です。1985年の『吸血鬼』から、20年以上経ってのこの作品なのですが、作品名『森の吸血鬼』はムンクが名付けたようですョ。今度は自ら「吸血鬼」としているところをみると、この頃にはもう、「吸血鬼」というネーミングを受け入れていたのかもしれませんね。むしろ、色んな意味で気に入っていたかも。「吸血鬼」はとてもインパクトの強い作品名ですからね。

作品名にも色んな歴史、人間模様があるものですね。